2021-10-23 自分のイメージは自分で決める
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知り合いのことがスペースの話題になっていたので開いたら、わりとプライベートのことが話されていた。
スペースはアーカイヴが残らないから「ここだけの話」をしやすいのだろうけれど、やはり公開される話ではあるのだから(スペースはフォロアーでなくても聞けてしまう)そのことは考慮のうえで話すべき場所だな、ということを考えていた。
舞台で演じる人のなかには、自分のイメージをとても大切にしている人もいる。舞台にあがればその人間全体が見えてしまうものだ…とかそういうことはもちろんあるけれどそれとは別に。もちろん舞台上に幻想を持ち込むことなく生のままの自分をあげているひともいるけれど、そういうこととも話は別だ。だってあくまでも、自分のプライベートをどのくらい、どんなふうに見せるかを決めるのは、どんな場合であっても本人であるべきなんじゃないかと思うから…。
そのひとの舞台裏を、間近で見たりサポートする立場の方が、そのプライベートをこういう風に誰でも聞ける場で、アーカイヴも残らない場で、話してしまっていいのか…。日本語だからご本人にはわからないかもしれないけれど世界は(とくにダンサーの世界は狭くて)こんなふうに繋がっているわけだし。
もしかしたら「全部言ってもいいよ!」っていう風にご本人に承諾を得ているのかもしれないけれどね。
でもこうして聞いた私は少なくとも警戒してしまうし、舞台裏の、制作に関わる話でなく何をして何を食べてこんな人で…という私的なことを公開するかたちで話されたら、信頼をおけないと感じてしまう。
わたしには彼らの関係性が分からないのだから、的外れな事を書いているかもしれない。
ということで、自分の思いだけをメモ書き。
私は自分のプライベートの中でこれはTwitterに書いてもいいなとかこの写真は載せてもいいなと思うものは載せているけど(もしかしたら人よりもプライベートをオープンにしているように見えているかもしれない…し、ある部分では実際にそうだと思う)、私以外の誰かのプライベートが明らかになる可能性のあるものは了承なしには絶対に載せないようにしている。
友達と一緒に写真を撮ったり大勢でピクニックをしたりしてその写真をSNSにあげるときには必ず本人に直接送るか、プライベートアルバムを作ってそこに写真をあげる。
これをみんなにも共有していいよと言うふうに言われた時だけ全体に公開することもあるけれども、それも稀だ。
もしかしたら自分のプライベートであっても人のプライベートであっても共有することに抵抗がない時代なのかもしれないけれど。
もしかしたらそれは私が写真を撮る人間だったからかもしれない。
写真を撮っていた期間はそんなに長くはなくてほんの7、8年ではあったけれどもその間に人を撮る仕事があったりもした。いろんな要因はあったけれども人を撮ることが私にはとても難しくて、それはきれいに撮ってあげられないとかいうことももちろんあったけれど前提として、写真で人を撮る、誰かの瞬間を私の手でそこに固定する、ということの中にある感覚を果たしてどう捉えたらいいのか、自分の態度をどう定めればいいかわからなかったと言うところが大きかったかもしれない。没入することができなかった。